さて、四人のシャラトに冒された人が、町の門お入り口にいた。彼らは互いに言った。「私たちはどうして死ぬまでここにすわっていなければならないのだろうか。」たとい、私たちが町に入ろうと言っても、町はききんなので、私たちはそこで死なければならない。ここにすわっていても死んでしょう。さあ今、アラムの陣営に入り込もう。もし彼が私たちを生かしておいてくれなら、私たちは生きのびられる。もし殺すなら、その時に死ぬまでのことだ。」こうして、彼らはアラムの陣営に行こうと、夕暮れになって立ち上がり、アラムの陣営の端まで来た。見ると、なんと、そこにはだれもいなかった。

このシャラアトに冒された人たちは、陣営の端にきて、一つの天幕に入り、食べたり飲んだりして、そこから、銀や金や衣服を持ち出し、それを隠しに行った。また、戻ってきては、ほかの天幕に入り、そこから持ち出し、それを隠しに行った。彼らは話し合っていった。「私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。もし明け方まで行っていたら、私たちは罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家にしたせよう。」彼らは町に行って、門衛を呼び、彼らに告げて行った。「私たちがアラムの陣営に入っててみると、もう、そこにはだれもあらず、ひとのこえもありませんでした。ただ、うまやろばかつながれたままで、天幕もそっくりそのままでした。」礼王紀第二7章3−5、8−10節

今日の聖書箇所ではいくつかの場面で見受けられる、3つの強調点があります。

すなわち、すべての章で出てくる深刻な食糧不足、3節の病い、6節の戦いです。翻訳の違いはありますが、聖書にはシャラートという言葉が40回以上は登場しています。レビ紀13章では、シャラートへの対処の仕方がれていると考えられていました。シャラートにかかった人々は、肉体的も、霊的もけがていると考えられていました。家族と同じ家に住む事も許されなかったのです。

イスラエル人に命じて、しゃらアトの者、漏出を病む者、死体二よって身を汚している者をすて宿営から追い出す。民数紀5章2節

彼らの生活は希望がなく、本当に惨めな生活だったと思います。しかし、そんなかれらが、イスラエル民族の中で一番幸せになり、歴史さえも変えてしまったのは興味深いことだと思いませんか。彼らの幸せは食物や経済的な裕福さによって与えられたものではありませんでした。聖書をみると、9節で彼らが口に出したことを10節を見ればわかるように、実際に行動に起こしてじっせんしたことによってはじめてもたらされたのです。

この聖書箇所について考える時、私は自分自身の内側を見せられた本当に恥ずかしい思いをしました。どうしてでしょうか。ここにいるほとんどの皆さんは、わたしも含めて第二列起き7章に出てくる男たちとは全く対照的だからです。救いに至る福音を信じているのにです。またイエス様だけが真実と人生のただのただ一つの道であることを知っているはずなのに、です。私たちは、この素晴らし主を自分たちの中にだけ大事に閉じ込めてしまって、人々に分かち合っていないのです。

イエス様が私たちを救ってくださったのに、どうして、知り合いや、友達、お隣の方、同僚にこの素晴らしい救いを分かち合わないのですか。「ライフスタイルとして、すべての人にイエス様をを紹介しませんか。」

兄弟姉妹、神様は私たちに伝道を命じられたのです。

 2の分はこちらです。

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